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N 「日本古代史」の謎
by fjk
邪馬台国の所在など、日本古代史には謎や不明なことが多い。日本古代史の文献として「日本書紀」や「古事記」があるが、明らかに誇張や創作したと思われるところもあり、真の古代史を記録したとは思えない。また、中国の「魏志倭人伝」の記述でも地勢的に合わないことが知られている。
とはいえ、歴史の専門家でなくても日本の古代史に興味があり、いくつかの歴史書(と思われる物)をあさってきたところ、以下のようにいくつかの疑問を持つようになってきた。
- なぜ「大和」を「ヤマト」と読むのか?
- 歴代の天皇家は「宇佐神宮」をなぜ大切にしたのか?
- 聖徳太子の謎(なぜ太子?)
- 天武天皇は本当に天智天皇の弟?
「史書は時の権力者が自分に都合に良い歴史を記述した(創作)物」であることは自明であり、勝者は「自分が正義」で敗者は「悪人」と史書に記述される。ということは、前記の3史書も同様な目で見なければならない。そして、ネットで邪馬台国などを検索していると、ユニークな説を唱えておられる「刮目天(かつもくてん)の古代史」を見つけた。
刮目天さんによると、「日本書紀」(720年)は藤原不比等が作ったもので、藤原氏に都合の良い歴史を記述したもの(でも、無から作るのは難しいので、事実を参考にしている)。「古事記」は古代(712年)ではなく9世紀に多朝臣人長(おおのひとなが)によって日本書紀を参考に作られたもので、日本書紀の誤記をそれとなく追加記述したもの。「魏志倭人伝」は魏の司馬懿(シバイ)が呉を挟み撃ちに出来る倭を手なずけたとする自分の功績を記述したもの、とある。そこで、刮目天さんは「考古学の成果からヤマト王権の成立過程を明らかにすることで、邪馬台国の場所を推理することにした」とあります。
刮目天さんの説への誤解があるかもしれませんが、私なりに理解したと思われる謎の回答を述べると、
- 3世紀の日本には「倭(邪馬臺、ヤマト)国」(九州)と「狗奴(クヌ)国」(畿内)があり、何度かの戦いの後に、狗奴国が倭国を滅ぼし日本を統一した。ところが、狗奴国の後ろ盾となっていた中国の呉が西晋によって滅ぼされ、脅威を感じた狗奴国の王(天照大神=饒速日(ニギハヤヒ))は応神天皇(西晋に朝貢した倭国の台与の子、大国主系)を王とし、国名を「ヤマト」と名付けた。そして、ヤマト政権は「言向(ことむ)け和(やわ)する」ことで大きな和の国が生まれたという意味で大和国とした(「大和」の文字は757年頃統一)。大和国は2つの勢力の統一国となったが、2大勢力が残ったことで、その後の混乱の元になった。
(注:「倭国」「狗奴国」とも複数の国(豪族)の連合体で、(祭祀)王はその代表で征服者ではない)
- 邪馬台国の所在説には「九州説」と「畿内説」があり、どちらも決定的とはなっていない。その理由は前述の通り、資料が不正確だからである。刮目天さんによると、卑弥呼の邪馬台国は北九州(卑弥呼の弟である難升米(ナショウメ)王がいた伊都国(糸島市)が王都か?)にあり、倭国大乱の折り、卑弥呼(斎王)は野麻(ヤマ)国(現:宇佐市安心院(アジム))に疎開していて、この場所が魏志倭人伝に紹介された場所と思われる。卑弥呼の死後、安心盆地に直径150mの円噴(対抗していた狗奴国の前方後円噴ではない)が卑弥呼の墓として作られ、卑弥呼は宇佐神宮に宗像三女神の「市杵嶋姫(イチキシマヒメ)」として祭られている。なお、邪馬台国とはヤマ国にいる女王(台)の国という意味で、司馬懿は自分の功績を魏第一等とするために、(帯方郡太守の)劉夏と難升米との話し合いで、倭国の王都である伊都国よりもずっと南の東方海上にある、戦略的に重要な位置にある女王の大国ということにした。さらに、難升米は奴国王スサノウを殺して倭国を乗っ取った師升の子孫。
- 聖徳太子は、不比等の父鎌足と中大兄(ニギハヤヒ系の子孫)がヤマトの大王(蘇我本宗家の蝦夷)を殺したことを隠すために登場させた人物。蘇我入鹿も山背大兄王も架空の人物で、蘇我馬子が用明天皇、蘇我蝦夷が豊浦天皇(?通説は大臣)。万葉集で斉明天皇(宝皇女)のお相手の軍王(イクサノオオキミ)は聖徳太子(蘇我蝦夷)で、天智・天武天皇の父とされる舒明天皇も架空の人物。乙巳の変(645年)は、蘇我氏(台与の末裔の大国主家)から物部氏(ニギハヤヒ家)への政権転覆であり、その正当性を示すために日本書紀が作られた。また、中臣鎌足は百済王子・扶余豊璋であり、中臣とは「奴国王の家臣」の意味(ニギハヤヒ系は奴国の子孫、百済王も呉王族系)。
- 日本の天皇家のルーツは大陸にあり、初代王の天御中主(アマノミナカヌシ)は春秋の呉王族の子孫(旧奴国)で狗奴国の物部氏、尾張氏へと繋がる。なお、天皇の呼称は中国神話の三皇(天皇伏羲、地皇神農、秦皇女□(女へんに咼)に由来する。天智(中大兄)は狗奴国(ニギハヤヒ系)の嫡子、天武は倭国(スサノヲ・大国主系)であり、壬申の乱(672年)はニギハヤヒ系(天智)から大国主系(天武)への政権転覆。その後、8世紀にニギハヤヒ系の光仁天皇が即位し、現在の天皇に至る。
その他、以下の説も、
- ●大国主命(オオクニヌシノミコト)と台与(トヨ、卑弥呼の後継女王)は夫婦
- 日本書記に「(300歳を超える)武内宿禰は神功皇后に寄り添い応神天皇を抱いている」とあるが、竹内宿禰は大国主で、神功皇后とは夫婦であったとみられる。さらに、神功皇后は台与とみられ、応神天皇は台与の子となる。台与は大国主と共に武器を取って奮戦し、戦死した糸島市の平原王墓に葬られ、後に纏向遺跡の箸墓古墳に改葬された。大国主は久留米市高良山でヤマト勢と戦って戦死し、祇園山古墳に葬られ、後に桜井市の外山の茶臼山古墳に改葬された。
- ●女性天皇はいなかった(天皇家のルーツ)
- 京都にある天皇家の菩提寺・泉涌寺では明治になるまで女性天皇は誰も祀られていなかった。女性天皇は藤原不比等が「持統天皇(斎王)が皇位を奪ったことを正当化するための謀略」。
- ●日本昔話と古代史の関係
- ・サル・カニ合戦は日本建国の戦い
- サルは示すへんに申(サル)で「神」でサルタヒコ(大国主)、カニは倭国を追討する軍を率いてヤマトの狗奴国から北部九州にやって来た尾張王で、倭王側に寝返った狗古智卑狗が尾張王を殺し、大国主久々遅彦に殺された尾張王・乎止与命(仲哀天皇)の仇を、跡を継いだ尾張王・建稲種命(景行天皇)に、同じニギハヤヒ大王の直系の狗奴国大王(崇神天皇)率いる物部一族が助太刀したという史実を民話にした。
- ・桃太郎伝説はニギハヤヒの話
- 日本建国前夜(2世紀)の饒速日尊(ニギハヤヒ)の吉備平定の話が、吉備津彦の鬼(百済王子温羅(うら))退治の話にすり替えられたもの。ニギハヤヒは奴国宮廷楽師・師升(紀元前3世紀に来日した徐福の子孫?)らの反乱で殺されたスサノヲ大王の弟で、奴国を脱出し、出雲から庄原市を経由して吉備(倉敷市付近)に入り、在地の勢力を平定して、奴国を再興して第19代王・天照大神尊とされた人物。
- ●倭人・倭国とは
- 倭人とは中国大陸から西日本の範囲で主に海上において(日中韓で)活動していた民族集団で、一部が西日本に定着して弥生人(ムナカタ人?)となった。倭国の最初の王は紀元前4世紀に半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に遷った天御中主(アメノミナカヌシ)。
たしかに、通説の歴史とは異なるユニークな説だが、イロイロと古代の謎がスムーズに説明できそうなのが面白い。反論のある方も多いと思うが、一度は訪れてみたほうがよさそう。
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